We’ve updated our Terms of Use to reflect our new entity name and address. You can review the changes here.
We’ve updated our Terms of Use. You can review the changes here.

発​露​/​outpoured

by emamor(FKA mamoru)

/
  • Streaming + Download

    Includes unlimited streaming via the free Bandcamp app, plus high-quality download in MP3, FLAC and more.
    Purchasable with gift card

      $10 USD  or more

     

1.
corn 11:10
<3画面投影型テキストプロジェクションのテキスト> I 画像 corn とうもろこしを桂剥きにしたものを食った… (ことがありますか?)⏎ (いたく感動するほど食べやすい!)⏎ 経験が→ 橙(だいだい)の相当な数の種を… (うまく、というのか、一風変わった?というのか、)⏎ さささっ!と→ 取ってしまう→ 方法(の模索)を生んだ⏎ そう、もう一度言う…と→ とうもろこしを桂剥きにしたものを食った経験が 橙(だいだい)の(相当な数の)種を さささっ!て取ってしまう方法を生んだ⏎ そんなお話し、あー、あ→ STAY TUNED→ あー、えー本日はご清聴ありがとうございます⏎ いや、技巧がどうこうって話じゃなくて→ なんというか、発想? なんというか、発想? なんというか、発想? いや、思考かな? いや、思考かな? いや、思考かな? もっと言えば思想? もっと言えば思想? もっと言えば思想? いや、さすがにそこまで言うと… 妄想? 妄想? 妄想? でもあえて言えば… 要は 必要 必要 必要 つまり、とうもろこしをがぶ!っといった時に→ 歯の隙間に挟まるあれのあの感じ→ が、もう嫌だなって⏎ いや、でもさ、世界には→ そこをなんとかする方法?→ きっとあるよ⏎ っていう希望? を持つ、っていうスピリット? で、この世界に問う? どうなんだ世界! どうなんだ世界! どうなんだ世界! あれのあの感じ なんとかならないの? なるんじゃないの? きっとその思考が後押しする 試行が錯誤したあげくに 「とうもろこしは桂剥ける」 っていう発想、が生まれ得る→ っていう希望、も得る→ なんてことはある⏎ というのは方法である→ というのが発想である→ と同時に希望でもある⏎ それは 可能だ という 世界はある そんなお話し、あー、あ→ cornからはじまる 思考は続く⏎ もっと言えばその必要があって→ それは→ 紛れもなく今まさに⏎ はじまろうとしている… 画像1(橙1) そんなある日、俺は… 画像2(橙1/2) 橙(だいだい)を切ってみたんだ そしたら種だらけだった 画像3(橙種アップ) あきらめるの?は簡単すぎる(自問自答)→ 手でほじるの?は嫌だから全部捨ててしまえ(自暴自棄)→ そのまま食べたら健康に良いかも?(自己暗示)⏎ いや、私は切る 画像4(包丁をいれる) 画像5(包丁をいれる) そして、切りとる 画像5(包丁をいれる) 画像5(包丁をいれる) 画像5(包丁をいれる) 画像5(包丁をいれる) そして、剥く 皮を剥く 画像6 画像5(包丁をいれる) ことで種を除け 実を得る あぁ、そうか そうだったんだ そうそうそう おもむろに あるいは勝手に 私は 理解した そうだ これは とうもろこしの桂剥きを知ったことで わたしの発想が変化し 生まれた 橙(だいだい)の種を さささっ!と 取ってしまう方法 学ぶとはそういうことだ 勝手に やっちゃうんだ 絵手本にも同じ様なことが言えるだろう(か?) 絵手本の作者にとっては そこに描かれた内容を描くことが そもそもの目的ではなかった(はず?)→ 描かれた内容を誰かが真似て描くこと→ そのことを通じて生まれる経験的な理解⏎ を経て、別の何かを生み出すこと それが目的? つまりさ お手本は道なの(かもしれない) 道ってたどっていくと→ 道の先へと通じていって→ どこか別の場所へ出るじゃない?⏎ それってとうもろこしを桂剥く時にも言えることで→ と言いつつ、はっきりとは言えないけど→ これは何かのPART1(だと思うんですよ)⏎ 橙(だいだい)の種のことだけではない→ と言いつつ、はっきりとは言えないけど→ 紛れもなくまだ終わってない感じがしているから→ そう、思考は続く→ THANKS FOR TUNING IN→ アー、アー、アー⏎ アーカイヴよ→ 俺の話は→ お前となんらの関係もないかのようだ… が⏎ どうだろう?→ アーカイヴよ→  お前は経験を残すことができるか? お前は経験を生み出すことができるか? お前は経験を伝えることができるか? 一人の人間のライフスパンを超えて? いや、 わたしが問うているのは アーカイヴではなく もう少し還元された「記述」に対してか? という気もする どうだろう? 記述よ お前は経験を残すことができるか? お前は経験を生み出すことができるか? お前は経験を伝えることができるか?
2.
ん〜 あぁ〜
3.
「何だ?続編」2022.06.23. 「何だ?」と共にわたしは生まれた。 いくら話しても話してもアクセスできない人がいる この人は考えがないのだろうか? いやそういうわけではない。 彼/彼女とわたしとは疑問を共有していないのだ。 あるいは両者には共有された疑問が無い。 そうするとこうなる。 お互いにとってメタフィジカルに相手は存在しない。 目に見えている=おそらくフィジカルに両者はどこかに存在している。 声も聞こえている=おそらくフィジカルに両者はどこかに存在している。 天気の話くらいならできる=おそらく同じ世界を幾分共有してもいる。 でも・・・本格的に人格的なアクセスはできない=おそらくメタフィジカルに両者はお互いの世界に存在しない(相当程度)。 これは両者の優劣じゃなくて違いに関しておこる現象であって、その根幹には両者の抱く「何だ?」の種類の相違があると思われる。 まず。 「ん?これ何だ?」とA事象に対して思ったときにわたしはA事象に対して生まれる。(ちなみに「あ~これね」と言う反応の場合はわたしには変化がなく何も生まれない、あるいはすでに生まれていただけの話。)それに対してA事象をスルーし「ん?これ何だ?」と思わなかった人がいたとすれば、その人はA事象に対しては生まれていない。だとすれば当然わたしはA事象に関してその人にアクセスできない、というか断絶があることは致し方ない。これが世に言う「考えれば考えるほど孤独になる」だ。Aと簡単に言ってのけたがもちろんAに近似したA1やA2’やAnというバリアントで微細な差異を考えると、「何だ?」はいつだって絶妙に入り組んだルートをたどり、後の祭り、そこは孤高なゾーンとなり、いやが応にもに到達してしまう袋小路。 正確には疑問を持てば持っただけ「わたし」が生まれ、生まれまくるのでその成長やら死やらその数だけ面倒見なくてはいけない。そう面倒なんだよ「何だ?」は。 マルチ「何だ?」によって複雑な存在となったわたしが理解される・理解することは実際上無理、に限りなく近い、が、それはたくさんの他者性への理解を示す可能性を示しているということは言える。これが世に言う「いろんな人のことを理解することはできてる気がするんだけど、理解されてる実感がほとんどない」だ。 それでいいではないか。 そもそも人類は断絶から生まれてくるんだから。つまり母体の中で細胞分裂によって形成されはじめたわたし以前が母体を離れというか、押し出されたり引き出されたりして、外界にカムアウトし大気に囲まれたその瞬間、完全にわたしへと生まれくるまさにその瞬間というのは、まぎれもなくあきらかに「断絶」だ。そうして、わたしは我に返ったというか我にはじめてなって、「ここはどこだ?わたしは誰だ?」という戸惑いの果てに、先程までわたしそのものであった母体であることは確かなのに初めて経験するその腕に抱かれて、「あ~そうかぁ…」と、自分存在そのものが他者性に立脚していたんだ、という事実についてもきっと泣き叫びその絶望か歓喜の声だかをあげ、人類はそれをわたしの「誕生」としてセレブレイトするわけだ。 そんな起源から生まれたわたしが抱く「何だ?」は本来的に他者性へのリアクションとのあわいに生まれる。「何だかな~」とか「何だって!?」とか「何だよ!」とか「何だ」のバリエーションは豊富にある。そこに共通するのは発言者の外にある何か、発言者にとってわからない何かであり、それは他者性そのものであり=その発見と出会いそしてコンタクトの中にこそ自己は創出されるのだ。 そう「何だ?」はわたしを相対的に産んだ。それでいいではないか。 そして「ヘー。そうなんだ」という認め合い(=愛)が、いま、わたしを育てている。 *ちなみにこれはプロジェクト『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』期間中に書かれ・発表されたテキスト「何だ?」の続編として書かれたものです。 以下、テキスト「何だ?」 2022年1月21日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「何だ?」という言葉を眺め考えていて、ふと思った。こんなにシンプルに[言い得ない何か]を体現した「(日本語の)言葉」があるだろうか?わたしには「何だ?」という文字の連なりと記号は素晴らしいフォーミュラ(数式)に思える。 そもそも言語自体が[言い得ない何か]を共有するという、よく考えてみれば矛盾したような動機を、いや、むしろ無理難題を解決する方法への希求こそを、起源として生まれた、と考えることができるだろう(か?)。仕草とか簡単な音とか合図的な何かでコミュニケートしていたであろう人類(など)が、何かをそれ以上に伝えたい、あるいは理解されたい欲求か必要か動機があったのだ、と仮定させてください、とりあえず、いまだけで良いので。 「うぅうううう、えぇえええええっと。(言葉以前の世界を言葉では当然表せないとは思いつつもそれを試みています)あぁあああああ〜」という何か(=呼びかけ/call)が発せられた(たぶん)。そしてそれを聞いた誰か(がいなければ言語ではないとわたしは思う)が「うぅううううう、えぇええええっと、あぁあああああ〜」という何かの狭間に感じたそれ(=応答/レスポンス)こそ「何だ?」の原型だったのではないか、と想像する、そして紛れもなく疑問形であっただろうこの「何だ?」が発せられた時に言語は産声をあげた。(とわたしは思う)。言語はきっと伝達欲求の音的な発露に次ぐコミュニケーションしたのかディスコミュニケーションに終わったのかわからないという不確定な状態から出発したはずだ。そしてこのコールからのレスポンス、というか原初的な「何だ?」の絡まり合いといったら、あぁ、これこそがリアリティ。その美しさといったらない。「願い」は叶わぬことで「願い」であり続ける、的な。始まりに「断絶」があった(かもしれない)、的な。あまりに切ない、妄想に近い? 言語的コミュニケーションの起源に関する想像を前提に、仮に、したとすると、発せられる言葉自体には意味がない=理解できない、としても、なんと、経験はできる(少なくとも音的に)。わからないことでも経験は出来る・・・聴き・想像することにこそ、あの「断絶」(の可能性をすくなくとも大いに含むやりとり)が人類にとっては壮大な旅の始まりにすぎなかった、と言える可能性があるようにおもう。 わたし(だけではないけど)は、よく英語で、とか日本語でとか、字源的なことや語源的なことを引き合いに何かの考えをすすめることがよくある。多言語による考察は、何かを言い表そう、その意味を捉えようとしたときに、これまで人類がいかに「それ」の周囲にある断絶を乗り越えて漸近しようとしてきたのか、という足跡をたどるような行為かもしれない。または、何かイメージしている色があったとして、10色ペンだったものを15色とか30色にするみたいなものだと考えればいい(のか?)。その勢いで100色、いや1万色?くらいあれば「橙グリーングレー気味の赤」みたいな謎な色のペンがあるかもしれないし、さすがに混ぜないと無理か・・・という複雑怪奇かつ出番のめったになさそうな色でも、すでに細分化された色を混交させることで近づくことができるかもしれない(あるいはそういう類の幻想を持つことはできる・・・)。そういった努力を繰り返しながら、旅は続く、あともう少しで「コミュニケート」できるんではないか?という淡い期待に動かされて、より細かく・詳細に・そして創造的に言葉を繰り出していくとき、ニッチな言葉や複数言語を織り交ぜた造語?みたいなものが生まれてくる(だろうか?)。細分化され専門化された色合いや意図やニュアンスはより正確・明確・鋭角になる。と、同時におそらく一般的に共有されている「こういうことだよね」という大きな場所からはどんどん離れていく道を、さらに逸れていき「ついてきてしまった」誰かをどこかへしっかり導くよりもむしろより複雑な混乱へと放り出すことになる小道・・・へと誘いかねない、といった結果を招くことに最適化されていき、その果てしない旅路の先にきっと「おかえり」と言って、にこやかに再び迎えてくれるのが、あのはじまりの「何だ?」なのかもしれない。
4.
糸を縫う針 という言葉が口をついて出た。 「いや、だから、例えば・・・糸を縫う針」 みたいな? 感じで思いついた? 伝えようとした のは、ある種の「不可能性」か? いや、でもそのさ 糸を縫う針 なんてものはないの? でしょうか? 「糸が細いとは限らんでしょうな」 的な、とんち系の転回? は、あるかも、しれない? ナノ針みたいな?最先端技術系? の、ソリューションさえ荒唐無稽? だ、とは言えない? 今の時代? 糸を縫う針⇒いとをぬうはり⇒意図を縫う針 という読み替えは見当違い? いやそんなことじゃない、 これは茶番ではない 糸、を、縫う、針、 いたって、聞き、取り、やすい はい、はい、はい、 と、聞き流してしまいそうなくらい に、スムーズな音階 その響き の、familiality(*親しみ) と、あくまでも自然な連なりに、 物理的な不可能性 (だと思われる何か) を、いともたやすく さらりとかわす 糸を縫う針のごとく・・・ いつのまにか高度を下げる エンジンをもたぬ 一機のエアープレイン は、音も立てず cruisin’ &  groovin’ 糸を縫う針のごとく・・・ phaseからphaseへと広がる水面 掻き分け進むこのテキストの 刻むその航路 は、エフェメラルな 空の轍 糸を縫う針のごとく・・・ 結論は先送り 垣間見えるのはただの動き かなり アーカイヴには捉え難き 問いに問いかける、 空の空 いっさいは空? で、割愛される? と、軌跡はない? 予定通りに調和されはしない じゃあパフォーマンスとは定義できない? そうは言ってもパフォーマンスではないとも言い切れない? としたら、何だ? と、逆照射 する、複数の意図が交差 し、プレイする果てに、 それぞれがノブを捻るEQ 高音域 中音域 低音域 少しずつずらし ピントを合わし 見えない音像を捉えようとし 版を重ね ながら、そもそも何にフォーカスするのかね? と、さらに絞り疑う ことを繰り返し 振り出しに戻し 留保する のは、牛歩する ある種の戦術でもある 断定を避ける ことで、自らを開き続ける ことで生まれ得る メビウスの輪 的な、この種の円環は ぐるぐると反芻 する、うちに、傾く ただただ 想像は 可能だ そうだ それは ありそうだ と、(おそらく) 万感の想いを 込めた ラスト・フライト を、君は見たんじゃないか? あるいはその響きを どこかで聴いた の、だろうか? おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?) と、ある朱に染まった 意図を 問う 間に 🛩(エアプレーン) は むしろ 逆(説)に飛ぶ? の、だろうか? と、想い巡らしながら アイデアや理解なんてものは いつも遅れてやってくるんだ と、つぶやきながら 三月をむかえる、今 また アップデート
5.

about

このアルバムに収録されたほとんどのトラックは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』と題し、アーカイヴにまつわる思索とその体現を中心に、2021年12月11日から2022年3月21日の100日間という長きに渡りmamoru、池田精堂、小林加代子、仲村健太郎、藤田瑞穂、松本久木の6名+他数名の強力な協力者からなる一群の「プレイヤー」達によって即興的に@KCUAの展示空間・印刷空間・Web空間、言語空間を舞台に意図を縫う針のごとく展開したり転回したり迷走したり瞑想したりもし続けたプロジェクトの一部として生まれた。

タイトルの「発露」という言葉はプロジェクト期間中にmamoruによって書かれた約5万字程度の全テキストから選ばれた188のキーフレーズ・キーワードの一つである。また、本アルバムの作者としてクレジットされたemamor(FKA mamoru)という名義は、同プロジェクトの中核を成す「展示」というテキストの中において思考・迷走・発展?した結果生まれた謎の決意表明に基づく名義・表記である。(が、つまるところmamoruですが、気に成る方は文末の長文をどうぞ〜)

Web: gallery.kcua.ac.jp/mamoru/

Main tracks of this concept album were born out of the art project "THIS probably IS NOT AN EXHIBITION (then otherwise what?)"that took place in Kyoto(@KCUA gallery) during Dec 11th 2021-Mar 21st 2022. The project was an attempt to embody the dialogue about archive using physical exhibition space, Web space, printed matter, and text. It was run by 6 players mamoru(artist), Seido Ikeda(installer), Kayoko Kobayashi(Web designer), Kentaro Nakamura(graphic&Web designer), Mizuho Fujita(curator), Hisaki Matsumoto(graphic&book designer).

The title of the album 発露/outpour is one of the 188 keywords/key-phrases that were taken from a body of texts(roughly about 100pages) and "emamor(FKA mamoru)" as credit also came out writing through a conceptual text, "exhibition".

Project itself is exclusively created with Japanese as primal material therefore translating the project would take so much time and effort or otherwise does not make sense... hopefully you can "see" a glimpse of it on this Website and tune into its vibes with these tracks...

gallery.kcua.ac.jp/en/archives/2021/7608/

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
文末の長文

【2022年1月21日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「展示」という言葉を眺め考えていて、ふと思った。「展示」、という言葉やニュアンスには視覚が常に伴う、と。もっと言うなら、展示ーexhibitionという言葉には「晒される何かを観る誰か」のコロニアルな視座を感じざるを得ない。そこに違和感を感じる。なぜなら、わたしは何かを晒すつもりもないし、晒されることもよしとはしない。物見小屋・興味棚起源史観に基づいた言説に影響を受けていることは否定しないが、これはかなりの部分実感でもある。

わたしの場合、舞台にあがり自らを開くことに関しては大いに覚悟をもって臨んできたことなのである種「自らを晒す」状態には慣れてはいるのだが、ただそれはあくまでも生きて動くものとしてであって、自分を物化し陳列するような、そんなことをしたいとは思わないし、そんなものを観たいと誰かが思うとも思わない。そもそも「自分」に物的な価値はない、と思う。かなり穿ったそして偏った物言いだとは思うが、あえて展示ということばにまつわる何かしらを掘り下げてみるために、そんな風にとりあえず言わせておいてもらおう。そもそもわたしは「自分を表現する」みたいなことに一切興味がない。物化されなかったとしても「わたし」なんてつまらないものだからだ。ただ生きて動いているときには、動いている本体よりも「動き」が主体になり得る瞬間・可能性があると思うし、それを引き出すため方法に興味があるし、理想的な希望を申せば作品やパフォーマンスがわたし以上のものであることを願っているし、当面は作品たちの1番の理解者であるだろう「わたし」でさえもよくわからないものであってもらいたい。

そういう意味でこれははっきり言える。
I never was interested in expressing myself.

そして再びの[ex](先ほどのexhibitionにもくっついていた接頭辞ですね)。
何にも増して、この[ex]がわたしの(おそらく生来の)興味とバッティングするのだ。

expressという言葉は表現と訳される。特定の意図された何かしらを「表」に現すこと。再度、穿ち偏った物言いをすると、表には表されているかもしれないが、内側はここで問題にはされていない。のではないか?なんて思う私はすでにそうとうに内側主義者なのであろう。つまり見た目が良くても美味くないものなんていうのは食いたくない派なのだ。もっと言えば見た目がいい場合に、実は美味くないんじゃないの?という可能性を常に意識する外側懐疑派だということでもある。端的に言うと、内実を問題にするタイプ、とも言える。転じて、どういう風に見えていようと意図が明確にあったうえでやったことであればそれだけが問題にされていればいいんじゃないの?派につきものの!?それでいいのか?問題は浮上する。
例えばemotionalなことの場合は何か感情的に(別の立場の人からしてみたら「勘違い」であったとしても)受け取った何かは受け取った人にとっては事実性の強い出来事なのでやはりそれがどうでも良いというのはちょっとまずい気がするし、歴史的な解釈にはこういった問題がいつもまとわりついているから、いろんなリサーチをしていても感情と事実は決して無関係ではないと思う。とサイドステップを繰り返してしまったが、ともあれ内側が一番大事、とかという言い方ではなく、理解されたいのは(少なくとも二項対立的な意味ではなく単なる比較として・・・私にとっては外側よりも)内側は大事だ、という部分だし、思考の傾向としては私は何かが内側にある場合にそれが外側がどうあるかということに影響するだろうという思考の順序をもっているという告白みたいなものだ。もしかするとこれは音楽的経験からくる実感かもしれない。同じような楽器で同じように弾いてみてもたったの一音でさえ違いがある。これは音を出す誰か・何かの内側の問題なのではないか?道具が何なのかという内側の段階や発音するのが誰(人でない場合もあるからね)、何(機械とかコンピューターとかね)、その他みたいな内側レイヤーもあり得る。あとは言葉でも言えるけど同じ言葉を聞いたとしても、何から何まで違う印象を受ける場合これは内側を問題にするしか・・・ないような気がする。と書いてみて思ったけど音とか声とかにはそもそも外装的なレイヤーが「見えない」のでやや例として機能しないくらい、わたしはそういうことに興味を偏らせているのかもしれませんね。わたしはあくまでも何かしらが体現されたものや体現するメカニズムに興味関心があるし自分もそういった興味関心+何かしらを体現するものでありたいし、そういうものを体現し宿す何かを作りたいと考えています。ね。

体現について私見を述べて考えてみます。表現という言葉をてこにしつつ。

体現されるものと表現されるもの
Things that are embodied. Things that are expressed.

embody
em+ほにゃらら、という接頭辞であるemはinとほぼ同じニュアンスを持ち、内旋する力の方向と状態を示す。(例えばempowerというの言葉があるが、これは「力づける」と訳され得ると思うが、力づけられる何かしらの内側に働く何かがあって、力づけたられた何かしらは力づけられた状態になるということだろう。)em+bodyの場合、body的な状態に内側からなることであり、生きたもの=動きのあるものになる(である)、というニュアンスと考えることができるだろう。(全くの私見)と、ここで忘れてならないのはbodyはいつかは死ぬという事実。つまりembodyには終わりもが与えられている。とすると、体現されるもの/Things that are embodied. は動いているのです。常に。止まることなく。ただし終わるまで。

express
ex+ほにゃらら、という字の連なりのexはoutとほぼ同じで、外旋する力の方向と状態を示す。(例えば手短にexpandという言葉があるが、すでに「延ばす」という意味をもつpand<似た言葉で pandemic がありますね>がex化されているので、これは単なる「拡大」ってだけでなくて、外側へ!というニュアンスをきっちり示したものということでしょう。)ex+pressの場合、pressっていうのがプレス=押す、なので外側へ!押す、ということです。この場合に押されるのは何か?内側じゃないの?ということも言えるのですが、実はそうとも限らない。何を外側へ!押すのか、は言葉そのものには明示されてはいないのです。
それよりもわたしには大事だと思われるのはこのpressという言葉に漂う一回性。(だって押す、と押し続けるは別の言葉ですよね。)つまり、表現されるもの/Things that are expressed. は外側に押し出された状態で止まっているのです。固定的な感じで。(たぶん)

ここからexhibitionのexが外側だとして、hibitionってのは何だ?と考えてみると、hibitなんですが。住みつくという意味のhabitみたいですよね。同じあたりの字源のようですが、hibitはhabereからきていて「持つ」「保つ」という固定的なニュアンスがあるそうですんで、exhibitというのは外側に保つ感じ、やっぱり晒されてるんですね。と思っちゃう。

表現する者たちが展示する。
Ones that express exhibit.

んだとすると・・・

体現する者たちは何をするのでしょうか?
Onse that embody do what?

と、問うてからしばらくして、2月28日、わたしはひとつの可能性に考え至った。

体現者はインプロバイズするんじゃないだろうか?
Ones that embodies improvise?

improvise。AMERICAN HERITEGE DICTIONARYを(勝手に私訳し)引用すると、1.準備無し(without preparation)で、生み出す(invent)、作曲する(compose)、語る(recite)。2. 利用可能な素材(available material)で作り(make)だす、提供(provide)する。例:(冷蔵庫にあるもので)適当に簡単な夕食をこしらえる。語源をたどればラテン語のimprovisus、 unforeseen=予期しない、など。ざっくり分解してみるならim(あるいはin)+providereとなる。
imというのは漢字で言うなら「無、不、非」つまり「ではない」というNot系の接頭辞。つまりimpossibleがimなpossibleで不・可能みたいな。proviseという語幹と同じ言葉は辞書の中には見当たらないがprovidereというラテン語は英語でいうprovide。提供する。その名詞形がprovisionで準備、備える、食糧なんていう準備オーライなニュアンスを持つ言葉だ。不・準備、非・食糧だとなんだかダメなやつに思えるが。provisionは規定なんていう意味も兼ね備えているので、無・規定と言うとリミッターを超えていきそうな感じもしないではない。と、断った上でなぜ体現者は即興するのか?という点だが、そもそも体現者は体現しちゃってるので、何かを表そうという意図をもって何かをするんではなく、何かをした結果なんだか勝手に現れちゃうのだ。improviseした結果がimprovisationだとしたら。彼女/彼らは残そうとしておらず、万が一残った何かがあったとしても、残す意図ありきのアーカイヴ性を持って生まれたものではなくて、やはり体現され死んでいく、ただただ現状としてあれこれの果ての結果ー特にそのことを狙ったわけでもなくー残っちゃったものなのかもしれない。

注:ちなみにperformanceって日本語でなんて言うの?と専門家に聞いてみたところ、「パフォーマンスかな?直訳ないんだよね」というリプライ。専門用語としては「繰り返されている行為、twice behaved behavior(->ritual)、レパートリー」つまりアートでよく含意したつもりになっている「一回性」とか「ライブ性」はもともとは言外の意なのだ。そういえば過去に唯一性を求めていた頃の先輩方はアクション?ハプニング?と呼んだりしていた。アートパフォーマンスは売り買い可能な繰り返される行為?なのか?(よくわからないけど)そういう意味ではパフォーマンスに含まれると思っていた意味的領域から「おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)」は外れるのではないか?と考え出している。

そんなわけで!?今後、exhibitionとか展示という言葉に対する違和感を解消するために・・・わたしの責任において行う企画では【exhibition】ではなくて【emなんとか(なんとか、は毎回ちがったりする)】と呼ぶことにします。それで、日本語で言うとしたら展が体かな?じゃあ、個展じゃなくて個体ですね・・・。いや、もう個とかすらいらない気がしてきた、個体って言葉紛らわしいし。。。けど責任の所在は必要なので・・・おそらくこれは体(mamoru責)だ、でいいでしょうか?(ちなみにグループ展はグループ・・・展のままだね俺が主催じゃないから。)きっと近々、わたしから『こんど久々に東京のギャラリーで体(mamoru責)をします。よかったらきてください!』という文章が届くかもしれませんが、つまるところはこういうことですんでよろしくお願いします。

ついでに、改めて、わたしは[ex]と決別し[em]な体現者であることをここに宣言し、今後mamoruではなくてemamoruになろうかと思います。あ、さらについでにemamoruの場合 em+amor(u)となるのでなぞに愛が体現された感じもして良いよねってことでこの際「 u」 を取った形にして、emamor(FKA mamoru)というアーティスト名に変更したいと思います。仮に今回のプロジェクトで考えるなら・・・おそらくこれは展示ではない(としたら、体[emamor(FKA mamoru)責]だ)ということになりますが、これはさすがにちょっと行き過ぎてなんのことだかわけわからない?気がしてきましたぁ、というくらいにして、この件はとりあえずがっちり留保しお開きとしたいと思います。】

credits

released October 14, 2022

music:emamor(FKA mamoru)
cover image: Haruka Matsumoto

license

all rights reserved

tags

about

mamoru Izu, Japan

First and foremost, I am a seeker of a way of listening

live play surf this world

started playing keyboard instruments as a kid, tried to be a Jazz musician, learned about improvisation, turned into a sound artist and now making projects mostly in contemporary art field

means of embodiment of my search

sound/music
text
lecture performance
video
installation
etc
... more

contact / help

Contact mamoru

Streaming and
Download help

Report this album or account

If you like 発露/outpoured, you may also like: